脳梗塞と軽度認知障害の父が運転免許証を返納するまで

高齢者の認知症と運転免許証のことがひとつのトピックになっています。昨年、横浜市で子供さんを巻き込む被害となった件も、高齢者の運転について考えざるを得ない契機になっているのだと思います。そこで、父が免許証を返納するまでの顛末を記録しておくことにします。

まず、父は東京の郊外(市部)に住む70代男性という前提があります。引退するまで自動車の運転が仕事の一部でしたので、本人の中に「運転できることは生きる上で欠かせない」という意識があることは間違いないと思います。私も子としてそのおかげで育ったわけですから、感謝の気持ちも持っています。

その上で、子として「これは、免許証を返納してもらうしかない」と考える出来事がありました。昨年、72歳の父が母の葬儀後に脳梗塞で倒れたのです。難病で長らく療養していた母の葬儀と病理解剖についてはこちらに記してあります。母の死から父の脳梗塞発症まではほぼ2週間ですので、多大なストレスがかかったことは確かでしょう。

脳梗塞発症から入院は約2週間、幸い大きな後遺症は残りませんでした。ただ、父は運転(気ままなドライブ)が趣味らしい趣味という人で、退院後の指導で「自動車の運転再開を検討するとしても、は脳梗塞の発症から6ヶ月以上経ってから」という主治医の指導にかなり反発しました。

「俺が運転しなかったら庭掃除もできない(自宅の敷地から車を動かさないと庭仕事ができない)」というのが本人の言い分。東京の郊外に住んでいて生活に車が必須でなくても、車移動に慣れた人はこういう理由に固持するものなのです。

父は70代まで病気ひとつしたことのない人で、自分の健康状態には絶大な自信を持っていて、脳梗塞も「治った」というのです。確かに大きな後遺症はないのですが、痛みや痺れはありました。また、父以外の家族は全員、さまざまな意味で「病気慣れ」していて、「病気というのは発症以前の状態に巻き戻すように治るというのとは違う」と思っているわけです。

脳梗塞発症の直前あたり、父がかなり大きなスピード違反をやらかしたことがありました。「母の介護中で帰宅を急いでいた」という理由はあるのですが、なんというか、理由があれば速度超過も許されるといった判断の甘さがあるように感じていました。この件で30日間の免停を受けていたこともあり、家族としてはかなり自動車運転の能力に疑問を持っていました。操作能力だけでなく、遵法精神の部分も含めてです。倫理の感覚が甘くなっているんじゃないかと思ったわけですね。なので、退院から3~4ヶ月くらいは、家族と主治医で合意固めをしました。これが昨年の夏ごろです。

こういうフェーズでは、突然、病院から呼び出しが来るといったことも発生します。できるだけ時間を調整して、呼び出しには応じて、主治医と面談の上「家族の意向は免許返納である」と伝えました。家族というのは私と弟の子供2人です。主治医は脳神経外科の専門医として、「脳梗塞を起こした人の認知(特に左側認知)の問題は予測がつかず、事故を起こして家族も、巻き込まれた人も大変なことになる、とても運転は推奨できない」という立場でした。まったくの正論です。反対する理由はありません。とにかく、どうやって返納を実現させるかです。

主治医からは「タイヤに千枚通しを差してパンクさせたご家族もいます」という手段も示唆されました。それも最終手段として考えましたが、とにかく法的根拠を示してまずは第一弾の説得です。

平成26年の道交法改正から、脳卒中など高次脳機能障害が起きる病気を発症すると、自動車の運転を実施するにあたり個別に判断する必要があります。父にはまず「脳梗塞という病気で自動的に免停状態になっている」という方向で説明しました。「運転を再開するには、医師の診断書が必要」と説得し、「運転を再開したならば、外来の診察の際に主治医に相談しないといけない」ということをとにかく通しました。すると、本人は試験場に自分で出かけていって臨時適性試験を自分で受けてきました。「試験場でOKが出たら文句ないだろう」というわけです。もちろん、臨時適性試験の結果で運転再開が認められれば法的にはクリアです。ただ、試験場ではシミュレーターはクリアしたというのが本人の言い分ですが、公安委員会からは結局「医師の診断書が必要」との書類が送られてきました。

同じころ、私から地域の警察署の交通課に相談して、自宅へ指導に来てもらうことにしました。警察署へ出向いたら、事故(まったくの別件)発生で担当者が出払ってしまう、といった無駄足も踏みました。ただ、制服の力を借りるには、こうした時間コストも掛ける必要があります。高齢者、かつ自分の運転技能に強い自信を持っている人を説得するには、プロセスとして法の執行が目に見える必要があるのだと思います。警察官の目の前で「家族が車の鍵を預かる」ということをやりました。儀式半分ですが、納得させるプロセスとして結構重要です。

ここまで根拠を固めておいて、本丸の主治医診察です。脳梗塞で入院した病院で聞いてみると、不定期(1ヶ月に1回くらい)認知症専門医が来て認知外来を受けられる機会がありました。脳梗塞の予後を診る外来の診察の場で、「脳梗塞という大きな病気をしたのだから、認知の機能は徹底的に検査を受けなければ、家族としては運転再開に同意できない」と父に伝えて認知外来の予約を取りました。

「認知外来を受けて、何もないなら安心して運転できる。調べれば確認できる」という理由で、つまり「運転再開を支援したいから診察を受けてくれ」という方向で説得して、予約を取ることに成功しました。頭から「運転するな」とつきつけてしまうとこれは喧嘩になります。やはり、「応援はしているが不安を取り除いてほしい」という文言は必要だと思います。

で、認知外来の診察。これも有給休暇をとって付き添いました。認知機能(海馬の機能)を確認するための詳細なMRIの検査と、専門医の面談との2回でセットです。面談に立ち会ってみると、かなりひどい物忘れがありました。15分前の質問を覚えていられないのです(私自身は今でもそのときの質問と回答を覚えています)。診断は、「軽度認知機能障害(MCI)」です。予期していた通り、かな。

診断結果を持って、主治医と父と私とで再度の面談。主治医からは「診断結果からして、運転再開を認める診断書は書けない」と言い渡されました。事故の可能性について、診察室でちょっと凄まれました。医師の立場としても、自分より一回りくらい年上の人にひとつの「権利」を諦めさせなくてはいけないわけですから、それなりの説得の仕方をしますよね。ここまで脳梗塞発症から約7ヶ月、昨年11月ごろのことです。

いったん一区切りなんですが、物理的に自動車にアクセスさせない、という手段はしばらく徹底する必要がありました。鍵は2つとも私が預かって(父とは離れて住んでいる)、「うっかり」免許停止を忘れようが何しようが乗れない状況を作らなくてはならないのです。

年が開けたころ、父が「試験場から免許を返納しろという書類が来た」と言い出しました。思い当たるのが、高次脳機能障害を持った人の場合、医師が公安委員会に報告することができるという点です。これについては、日本医師会も「守秘義務違反にあたらない」と表明しています。

家族の合意も取れているし、あー先生から報告が行ったんだなーという感じ。行政の動きは時間がかかりますが、各方面にコミュニケーション取っておくと然るべきところにちゃんと情報は行きます。1ルートじゃなくて複数が理想(主治医+地域の警察とか)なのでしょう。

しぶしぶではあったと思いますが、この3月に父はバスに乗って試験場に免許返納をしに行きました。せっかく行ったのに運転経歴証明書の申請は忘れてきたので、「5年間は申請できるから取ってきなよ」と説得しているところです。身分証明書としてはマイナンバーカードでもいいのですが、「運転を諦めた」ことに対する納得感を演出するためにも、使い慣れた免許証と同じ体裁の身分証明書があるといいかなと思ってます。

あとは、車の処分ですが、まあそれはぼちぼち。こんな感じで、トータル11ヶ月くらいかかりました。それくらいかかって、運転免許返納までこぎつけました。東京住まいで、生活の足がなくても良いからだとは思います。また、認知症の診断に当たっては、認知外来にかかるなど医療の場につながるまでがハードルだといいます。「そんな必要ない」「病気なんかじゃない」と拒否されてしまうというパターンです。脳梗塞で救急搬送されるという、あきらかな「病気になった」段階があったから父は認知外来にかかることを承諾した、という面はあったと思いますが、使える理由は何でも使って、とにかく医療にかかるプロセスが絶対に必要だと思います。

11ヶ月の中で、有給休暇は4~5日必要としたと思います。認知外来のように、診察日が平日に決まっていて土日の予約は取れない、など働く人には厳しい部分もあります。事前にこうしたプロセスに関する情報があれば、家族で順繰りに負担する、メインの担当を決めて他の家族がフォローする、といったことも可能だと思います。簡単なまとめですが、どなたかの参考に少しでもなればよいと思います。

【軌道エレベーター派】さんご紹介

リンクをお願いしておりましたのにこちらの方がご紹介が遅くなりました。

宇宙エレベータの取材でお世話になりっぱなし、「軌道エレベーター派」さんのblogです。

軌道エレベーター派

宇宙エレベーター協会(JSEA)年鑑の編集長さんでもいらっしゃいます(私も原稿書いております。毎度遅くてご迷惑をおかけしております…)

「(名称では)軌道エレベータ派ということでよいのか」とお尋ねがありました。”軌道エレベータ”という響きには私も大変思い入れがあります。しかし、この構想が一般的になってくれるのならば”宇宙エレベータ”としての妥協も辞さない。このような態度を

こうもり

と呼びます。私、そういうことです。

カメラマンは食えなくなっているのか?

3月3日、昨夜から今朝がたフォローしているタイムラインでは研究職の安定性の問題が話題になっていました。直接関係があるわけではないのですが、以前にタイムラインで「フリーカメラマンて食えてるの?」 という疑問を見かけたので連ツイしたものをまとめてみます(ツイートだと読みにくかったですね)。私これでもカメラマンの女房ですし。

リンク先のPDFは国勢調査を元にした職業小分類別の就労者数推移です。カメラマンは「43 写真家、カメラマン」の項ですね。スチールとムービーと両方入っているはずです。2010年の最新の国勢調査では6万5000人、日本にはカメラマンがいることになってますね。
ちょっとわからないのは、フリーランスかどうかを反映しているのかということ。社カメの方はまず「会社員」と回答すると思うのですが、さらに業種で区別して業務内容が写真業だったら小分類43に入れるのかしら。とりあえず大方フリーだと思っておきます。
確定申告の職業欄ベースならほぼフリーだとおもうんですけど、申告してないフリーランスもいるしなあ。

さて就労者数ですが、1980年:4万6000人、1985年:5万5000人、1990年:6万3000人、1995年:6万6000人、2000年:6万7000人、2005年:6万7000人、2010年:6万5000人。
’80年から’90年まで8~9000人ずつ増えてますね。5年で2割近く就労者数が増えていくわけだからそれだけ需要多かったということですね。80年代の雑誌ブームを反映しているんでしょうか(スチールの方の事情なので、ムービーの方の事情はちょっとわからないです)。

旦那さまはこの間にスタジオマンから師匠のところに行ったりした修業時代でした。ちなみに、日本でもかなり初期からCD-ROM写真集を試みたところです。80年代後半はバブルのころなので、仕事は引きも切らないし羽振りのいいことも相当あったようなのですが、このころからフリーの食える/食えない問題というのはありました

1990年前後あたり、旦那が友達と鍋を囲んで、珍しく豆腐やら肉やら入れた鍋にしたところ、先輩カメラマンが「お、今日の鍋豪華だな! どうした」「失業保険もらったんで具材買ったんですよ」「俺、お前の失業保険で鍋食わしてもらってんのか……」と先輩が涙した、という話がありました。豪華といっても、白菜とネギばかりの鍋に豆腐と豚コマが入ったとかそういうレベルですけれどもね。
先輩がなぜそんなに困窮していたのかというと、賞をとって評価を受けたものの、ギャランティ面で「でも、お高いんでしょう」ということになって仕事が減ったからだというんですね。もちろん賞をとってきちんと評価されないとカメラマンとしてのキャリアも続かないのですが、若手や中堅から一歩進む段階では、一時的にそういうバランスが崩れることがあるということです。しかしそれは一時的なものですね。全体では需要があるから就労者数が増えるわけです。そして1995年、2000年と伸びは鈍化しますがまだ増えています。4%増、1.5%増って曲がりなりにも写真家は専門職で参入のハードルが低いわけでもありませんし、伸びとしてはそれなりだと思いませんか。

このころ、徐々にDTPをきっかけにデジタル化が始まって、カメラ機材と感材の経費に変化がおきてきます。90年代だとまだファッション誌あたりではあんまりデジタル信用されてない、対応してないころでしたが、出版でのデジタル移行はすこしずつ始まっていましたしね。私もフィルム入稿の経験がある最後の方の世代じゃないかなと思います。
机の引き出しにダーマト(ダーマトグラフ:芯にワックスを含んだ色鉛筆、ポジフィルムのスリーブの上に描きこみするのに必要)が眠ってる、とか笑い話が通じる最後の方ですね。さて、世の中はバブル後ですが、2000年前後だと「出版はバブル崩壊の影響を受けにくい」なんてことも言われたりしましたし、ITブームが起きて世の中その流れについていくのにメディアもかなりがんばっていたわけです
旦那はIT関係の出版社とかかわりがあったわけで、取材が多くて要は需要があったんですよね。一日3階建て取材とか普通にありました。忙しかった。デジタル化で現像を自分でやらないといけなかったので、手間はかかるようになった。手離れというか、1件あたりの作業時間に対する単価は下がりつつあったと思います。
ただ、デジタルになったので感材費はかからなくなって、ランニングコスト的な経費は減ったかもしれません。結婚した当初、2000年くらい(もう少し後までかな)までは私も確定申告のときに旦那と相談して勘定科目に「感材費」を作ってプロラボ代をつけていたりしたんですが、だんだんそれがなくなっていきます。
デジタルの方が機材の陳腐化が激しいので設備投資というか減価償却資産に入るものはけっこうかかるんですけどね。現在の旦那の実感だと「3年ごと50万円」だそうです。ただ、毎月出ていくフィルム代は大きかったですからねえ。

さて2000年代前半までフリーを食わせていたメディア需要ですが、だんだん息切れというか続かなくなってきますよね。わかりやすいくらい、2000年と2005年就労者数が同じです。人増やすほど需要がなかったってことですよね

で、旦那も息切れw 2000年代の真ん中で体を壊します。無理がきかなくなって仕事激減、2008年まで私の方の仕事が件数増えて補えたんですが、2008年9月に何があったのかはもうわざわざいいません。
その後出版産業が2兆円を割り込んで、広告という最大の製作実務が減って、人はどんどん追い出されて2010年、ついにPDFスタートの1970年から40年間伸び続けていた写真家・カメラマンの就労者数が減少します。2000人が業界から出て行ったということです。いやあもう、カメラマン個人の家計に与える影響は推して知るべといいたいです。

カメラマン個人の平均年収はなんとも言えません。私は数字を持っていませんので。しかし仮に平均が年収500万円としましょう。ピンキリの世界ですが、経費の分、会社員平均より少し多いと思いますので。500万円×2000人、100億円分この業界は人を食べさせていくことができなくなったと、まあそういうことじゃないかなーと国勢調査をつらつら眺めて思うわけです(この考え方であってますか?)

そんな中でこれからどうなるのかなあ。いろんな浮き沈みを体験したんですけどこれから先は不透明すぎてよくわかりません。まじめにやってりゃいいというものでもないし、かつ個人の資質の部分も大きいけど、業界がシュリンクしている中で椅子取りゲームの敗因を全部個人のせいにされるのも釈然としないものがあります。
てなところです。これまでの経緯とか記憶頼りの部分もありますけど、これは個人が身の回り半径2mくらいで物言ってるということで勘弁してください。ちなみにPDFの第一項は「1(1) 自然科学系研究者」です。就労数変化っていろんなもの反映してるんですよね、きっと……。

 

2012年前半 宇宙開発記事

2012年1月~6月 ライター秋山文野として、宇宙開発に関する記事はこんなものを手がけました。

2012年に宇宙で起きるできごとのまとめ  2012年1月10日 週刊アスキープラス

週刊アスキー本誌昨年末の宇宙記事まとめ

手のひらサイズの人工衛星を宇宙空間にプイッとするJAXAの新技術 2012年1月27日 週刊アスキープラス

HTV3号機が国際宇宙ステーションに運び、放出ミッションが行われた小型衛星放出機構の紹介記事。JAXA 筑波宇宙センターで打ち上げ前の報道公開を取材しました。星出さん自ら機器の説明にあたってくださいました。

みちびき衛星対応のGPSナビ『ガーミン eTrex』の実力を徹底検証  2012年3月27日 週刊アスキープラス

コンシューマー向けGPSナビ製品としては初の準天頂衛星”みちびき”対応製品、ガーミンeTrexJのレビュー記事。みちびきが天頂にある日時を選んで、夜の新宿高層ビル群の谷間を歩き、iPhone4s、GalaxyTabと位置情報の精度を比較してみました。

7月21日打ち上げ予定のHTV3号機はどんな実験機器を宇宙へ運ぶの? 2012年4月19日 週刊アスキープラス

HTV3号機打ち上げ前の報道公開取材記事

宇宙からiPhoneで家族に愛を伝えた実話『宇宙家族ヤマザキ』舞台化決定 2012年5月19日 週刊アスキープラス

宇宙エレベーター関連でお世話になっている、宇宙食堂さんが書籍「宇宙家族ヤマザキ」を舞台化。宇宙食堂主催の新井さん、キャストの皆さんと原作者・山崎大地さんにインタビュー。

「きずな」(WINDS)チームの震災対策支援に関する記事がアップされました

日経PC Onlineに5月18日付

『JAXA 高速インターネット衛星「きずな」(WINDS)チームの活動

インターネット接続環境を宇宙から支援』

http://pc.nikkeibp.co.jp/article/interview/20110516/1031810/?f=news1

が掲載されました。

震災に関するJAXAの支援活動はWINDSだけでなくALOS、ETS-VIII、

実はQZSSも行っていたりするわけですが、今回はWINDSのミッションマネージャの

方にインタビュー。

うかがったのは4月末ごろ、ちょうど岩手県での支援活動を終えられて、

みなさん戻ってこられるタイミングでした。

何度も現地に赴かれた方もいらっしゃったとか。地道な支援活動に敬意を表します。

印象的だったのは、被災県外からさまざまな支援活動に赴かれた方も、

実はネット回線を必要としており、衛星回線はそこで役立ったという点。

考えてみたらそれはそうですよね。

他にも広報の問題(WINDSの存在、機能についてもっと周知されないと)

といった課題も実感されます。

わりあい地味な記事かなとは思うのですが、人工衛星の実利用と社会の関わり

に関する部分なので、これからもこういう取材記事を続けていきたいものです。