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ボイジャーの父とベピ・コロンボ(『ロケットガールの誕生』より)

2018年7月28日、JAXA宇宙科学研究所 特別公開時に展示されたベピコロンボ計画の日本探査機「MMO/みお」模型。

2018年10月18日、JAXA・ESA共同の国際水星探査計画「BepiColombo(ベピコロンボ)」がついに打ち上げられることになりました。日本からは水星磁気圏探査機「みお(MMO)」、欧州からは水星表面探査機(MPO)という2機の探査機を組み合わせ、水星の磁場や地球と異なる特異な磁気圏、希薄な大気や表面のようすを観測します。打ち上げから水星到着までおよそ7年(2025年12月到着予定)という長い探査の始まりです。

マリナー10号撮影の水星画像にベピコロンボ計画のマーキュリー・トランスファー・モジュールのイメージを重ねたもの。
spacecraft: ESA/ATG medialab; Mercury: NASA/JPL

これまでに水星を探査した宇宙探査機は、フライバイ探査を行った1973年の「マリナー10号」と、周回探査を行った2004年の「メッセンジャー」(共にアメリカ)という2機の探査機だけでした。

「ベピコロンボ計画」という名称には、上記のうちマリナー10号と関わりがあります。イタリアの天体力学者ジュゼッペ(ベピ)・コロンボ博士はマリナー10号が水星を探査する軌道を提案した人物です。そのときのことは、『ロケットガールの誕生』にこう書かれています。

一九七〇年にJPLで開催されたマリナー10号に関する会議の席で、コロンボは、水星に二回接近できる方法を提案したのだ。

『ロケットガールの誕生』第10章 最後の宇宙女王 より

このときのエピソードは、NASA ジェット推進研究所(JPL)でマリナー計画に深く関わり、1976年から1982年までJPL所長を務められたブルース・マレー博士の著書『Journey Into Space : The First Thirty Years of Space Exploration』に詳しく著されています。後にJPL所長として火星探査機バイキング、そしてボイジャー探査機の打ち上げを率いたマレー博士とベピ・コロンボ博士との出会い、そしてマリナー10号の実現までをご紹介します。

■水星の公転と昼夜の謎

JPL/カリフォルニア工科大学(カルテク)で水星探査の検討を行っていたのは1960年代の後半でした。19世紀までは、「水星の公転と自転周期は一致しており(地球の88日)、水星は太陽に常に同じ面を向けていて昼の側は非常に高温かつ夜の側は太陽系で最も冷たい場所」と考えられていました。1961年、欧州の学術機関は水星の公転周期を1万分の1の精度で求めることに成功。同じ年にミシガン州の電波天文学者が水星からの電波の放射を捉えることに成功しましたた。驚いたことに、水星の夜の側から発された電波からすると、夜側は従来考えられていたほど冷たくないことがわかりました。

昼の側から夜の側へ熱を運んでいるものは何でしょうか? 大気だとすると、水星に反射した太陽光のスペクトルを分析しても二酸化炭素のように熱を運ぶことができるガスは見つかりませんでした。大気があったとしても、主成分は当時は不活性なアルゴンガスだと考えられていました。

1965年にはプエルトリコのアレシボ天文台が水星を観測し、自転周期は88日ではなく59日であることがわかりました。ではなぜ従来は88日と考えられたのか? これを解決したのがイタリアのパドヴァ大学の天体力学者、ジュゼッペ(ベピ)・コロンボです。コロンボは水星の公転周期と自転周期が3:2の共鳴関係にあることを論文で発表し、理論はすぐにレーダー観測によって確認されました。水星は昼夜にぱっきり分かれているわけではなかったのです。

■水星への一度きりのチャンス

次第に謎が解明されてきた水星ですが、そこへ探査機を送る方法を考案しなくてはなりません。この答えを出したのが英国惑星間協会。金星の重力を使って探査機の速度を変える方法を考案しました。マレー博士が「スイングバイ」方式を知ったのはこのときが初めてだったといいます。ボイジャーを始め多くの探査機が利用してきたスイングバイ方式ですが、実際に採用されたのはこれが最初で、マレー博士も「ペテンのような」方法だと感じたといいます。

1962年にはマイケル・ミノービッチ博士が1970年と1973年に金星をスイングバイして水星に到達できるスイングバイ軌道を発見しました。マリナー級の探査機であれば、アトラス/セントールロケットで金星を経由して水星に到達できます。ただし、チャンスは1回です。

NASAは1967年、水星・金星探査計画を1973年に行うと決定しました。仮名称はマリナー/ビーナス/マーキュリーの頭文字から“MVM”と命名されました。これが後のマリナー10号です。探査機は基本的にマリナー6号、7号と同じ。ただし、NASAの太陽系探査予算は縮小されつつあり、予算規模は9800万ドルとされました。1968年にアメリカの科学アカデミーはそれまでの2機同時開発をやめ、「打ち上げを1回きりとすべき」との見解を発表しています。「惑星探査はもはや原始的でリスクの大きい試みではない」というのがその理由ですが、つまり「失敗は許さん」ということです。

一度きりのフライバイ探査で、水星の昼の側を撮影し、夜の側で磁場を観測するにはどうすればよいのか。カメラでの撮像も、磁場の観測も外せません。マリナー計画では金星と火星の磁場を観測していますが、ちらにも地球のような磁場は見つかっていませんでした。水星は火星より大きな鉄のコアを持っていますが、長い年月で惑星の内部はかなり冷えていて、磁場を生み出す活動は起きているだろうかという疑問があります。金星ほどではないにしても自転は遅く、それぞれ条件の違う惑星をなんとしてでも比較したいものです。

計画は、水星の「午後」の側から超望遠カメラで撮影し、夜の側に入って磁場の観測をするということになりました。マリナー6・7号とカメラ構成を改良して水星探査に特化した観測機器に変え、当時としては非常に高性能の4秒角という解像度を実現するカメラシステムが完成しました。これは、新聞の三行広告を約400メートル離れたところから解読できる性能だといいます。

■ベピ・コロンボとの出会い

MVMことマリナー10号の計画スタートを控えた1970年2月、カルテクにてMVMの科学会議が開催されました。マレー博士がベピ・コロンボ博士と実際に対面したのはこのときが初めてで、本にはこう書かれています。

そのとき、私はこの小柄ではげかかった、世界で最も魅力的な笑顔を持つ人物をかろうじて知っているという程度だったが、コロンボは近づいてきて私に話しかけた。
「マレー博士、マレー博士。イタリアに戻る前に、どうしてもあなたにお聞きしたいことがあります。探査機が水星に接近した後、太陽を周回する期間のことです。探査機を戻ってこさせますか?」
「戻って、来るですって?」
「そうです。探査機は水星に戻ってこられますよ」
「本当ですか?」
「確かめてごらんになったら?」

『Journey Into Space』5. One Chance for Mercury より

コロンボ博士の言葉は正しく、MVMは水星の公転期間88日のちょうど2倍である176日かけて太陽の周りを回って戻ってくることができました。少しの軌道修正で水星の2年ごとに同じ面を観測できます。打ち上げのチャンスは1度きりですが、ミッション期間を伸ばすことで更に多くの観測データを得ることができるのです。

これが、ベピ・コロンボ博士が「マリナー10号の水星遭遇軌道を提案した」というエピソードの詳細です。惑星探査の予算が縮小され、余裕を持った計画が難しくなる中で、軌道計画によってエクストラの観測機会を実現したのがコロンボ博士の提案だったというわけですね。

その後、マレー博士はマリナー10号の通信システムを改良し、データ処理のボトルネックとなっていたテープレコーダー式の一時記憶装置を廃して、さらに地上側のDSN(ディープ・スペース・ネットワーク:NASAの大アンテナ網)のエンジニアを説得し、117,600bpsという当時としては画期的な転送レートで水星の観測画像を送信する計画を立てます。

さて、実際のマリナー10号のミッションはどうなったのでしょうか。また次回ご紹介したいと思います。

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ガーターベルトからの「解放」(『ロケットガールの誕生』より)

ナタリア・ホルト著『ロケットガールの誕生:コンピューターになった女性たち』には、NASA ジェット推進研究所と宇宙探査の歴史だけでなく、20世紀半ばのアメリカ文化の変化を実際にそこに生きていた女性の目を通してつづられています。

本書に登場する“ロケットガール”の女性たちは、後にコンピューター室長になったヘレン・リンさん、バーバラ・ポールソンさん、スー・フィンレイさんたち最初の世代の多くが1930前後の生まれです。アメリカ初の人工衛星が打ち上げられ、NASAが誕生した1950年代後半にプロフェッショナル職を持つ20代として過ごしているのです。

今でこそTシャツデニムの聖地のような米西海岸ですが、この時代は服装はまだ保守的でした。JPLで最初の女性コンピューター、バービー・キャンライトさんに関する部分では、飛行場でロケットプレーンの実験に参加する際にも、きちんとドレスを着てストッキング、パンプスを履くシーンがあります。

女性解放を象徴する服装というと書物に登場するのはなんといってもミニスカート、というイメージがあります。ただ、ミニスカートの流行は1960年以降でマリー・クワントらデザイナーやファッションブランドの功績によるものだと思います。

ロケットガールズ第1世代が20代だった1950年代後半、ある新しいファッションが生まれ、ひとつの女性解放を果たしたことが本書にあります。それが、パンティホース(パンティストッキング)でした。

パンティストッキングが登場したのは、一九五〇年代にエセル・ブーン・ガントという女性がいたおかげだ。

『ロケットガールの誕生』第9章「惑星の引力」より

本書の引用元でもあるSmithsonianの記事『50 Years of Pantyhose』から、パンティストッキング誕生の歴史をたどってみましょう。

(パンティストッキング)発明者の息子アレン・ガント・ジュニアによると、ガント・シニアは妻のエセル・ブーン・ガントと共にニューヨーク市でメイシーズ・サンクスギビング・デイ・パレードを見物し、ノース・カロライナの自宅に帰ろうと夜行列車に乗った。そのとき妊娠中だったエセルは、夫に対して「少なくとも子供が生まれるまでは、もう一緒に旅行はできない」と告げた。夫婦のどちらかに問題があるというわけではなく、とにもかくにも快適さの問題だ。お腹が大きくなりつつあるため、ストッキングをガーターベルトで留めておくことがいよいよ難しくなってきている。かといって、公共の場所に出るのにちゃんとした女性が靴下を履かないというわけにはいかない。

これは1953年のことだそう。今ではファッションアイテムの一つであるガーターストッキングですが、この時代では
・女性が素足を見せて人前に出ることなんてできない
・長時間身に着けているとガーターベルトがきつくて苦しい
という二つの理由から女性を縛る存在だったのですね。

アレン・ガント・シニアは、妻の訴えに発明の才を持って応えます。彼は「パンティとストッキングを組み合わせてみたらどうだろう」と提案し、エセルが実際にストッキングを縫い合わせて試作品を作ってみました。繊維工場のオーナーであった彼は、自分の会社にこれを持ちこんで商品化。1959年に「パンティレッグス」の名前で百貨店で販売されるようになりました。

30年後にエセルは取材に対して「とても素敵でした。私と同世代の女性はみな発売当初から最高だと思っていて、手に入れるのが待ちきれませんでした」とコメントしています。

その後、ミニスカートが登場するとパンティストッキングは別の意味で流行に貢献します。ストッキングをガーターベルトで留めると、ストッキングの縁と留め金部分がスカートのすそから見えてしまいます。ニーハイソックスのように最初から縁を見せるつもりならともかく、意図しないのに見えてしまうのは女性にとって嬉しくもなんともないですが、パンティストッキングなら大丈夫というわけです。

日本でこのパンティストッキングが普及したのはもう少し後だったようで、1945年生まれの私の母は60年代半ばに働いていたころ、まだガーターベルトでストッキングで留めるしかなかったという話を聞いたことがあります。70年代、80年代には日本でもすっかり普及していますね。パンティストッキングはそれはそれで、少々暑いとかサイズの制約が厳しいといった問題もなくはないですが、全面的にガーターベルトへ後戻りするということはもうなさそうです。

さて、足元の女性解放を果たして生活必需品から引退したガーターベルトですが、今でもTwitterのタイムラインで時々話題になるのが「ガーターベルトは、ショーツの上に着けるべきか、それとも下か」という問題です。ガーター部分が外側に見えているとレースなどの装飾がきれいですが、トイレにいくたびに外さないといけないので不便です。実際のところ、どちらが正しいのでしょうか?

というわけで、「正解はない」のが正解。引用したイギリスのストッキング専門店によると「デザイナーはガーターベルトを上にして着けると美しく見えるようにデザインしている。とはいえ、お手洗い事情がそれを許さないこともあるため、ショーツを上にしている人は多い」だそうです。

1950年代、ガント夫妻のおかげでガーターベルトは女性を縛る存在から、好みに応じて身に着けるファッションアイテムに変りました。その歴史を尊重すれば、ガーターはつけたいようにつける、が良いと思うのです。