多発性硬化症(MS)の母を病理解剖してもらいました。

ストレートなタイトルですがこれがほぼ1年前のことです。

私の母は、40年来“多発性硬化症(MS:Multiple Sclerosis)”という病気を持っていました。MSとは、神経を包むケーブルの被膜のような組織“髄鞘”に炎症がいくつも起きて、炎症に続く組織の硬化のために神経の働きが障害される病気です。炎症がいくつも、また再発が何度もあるので「多発性」、病変の起きた組織が硬くなるので「硬化症」、合わせて「多発性硬化症」です。

日本で患者数は7000人程度とのことですが、欧米でははるかに患者数が多く、著名人では映画『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』のモデルとなったイギリスのチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレさん、『ハリー・ポッターと賢者の石』の作者J・K・ローリングさんのお母様、2012年の米大統領選で共和党の大統領候補となったミット・ロムニー氏の奥様のアン・ロムニーさんなどが知られています。日本ではなんといっても、『笑点』大喜利メンバーとして活躍された落語家の林家こん平さんが現在もMSで闘病されていることで知られています。

MSは男性よりも女性に多く、比較的若い時期に発症し、数度の再発を経て寛解にいたることが多いようです。母は26歳のころに発症し、2016年に70歳で亡くなるまで数回の再発があり、人生の長い期間を病気と共に過ごしました。私は3歳のころから次第に運動障害が重くなる母を見て過ごし、杖をついての歩行→外出時は車椅子→電動車椅子→寝たきりとなっていく様子を知っています。

重い病気を抱えていた母ですが、そのことに絶望していたかということ別にそんなこともなく、落語のCDをたくさん聴き、時代小説を読みまくり(杉本苑子、平岩弓枝作品を母から教わりました)、ボランティアでユニバーサルトイレのマップを作り、株式投資をして資産を増やし、車椅子で台所を動き回って芋がらの漬物を作り、書類仕事のできない父に代わって確定申告を済ませ、毎日忙しくできることと好きなことをして過ごしていた人でした。

そんな母ですが、2015年の夏に誤嚥性肺炎を発症し、数カ月の入院を経て気管切開の手術の上に自宅療養、在宅介護を受ける生活が始まりました。私と家族は、24時間気管切開孔の管理と経管栄養を行う介護生活に突入。これはこれで一定のリズムがありつつも厳しい生活ではありました。長い介護生活をどう組み立ていこうかな……と思いつつ毎日を過ごしていたころ、母は在宅介護の開始から2ヶ月ほどたった2016年3月末、ふっと呼吸が止まって亡くなりました。

その前の日、私は介護当番の日で日中は母の横で在宅で仕事をしつつ、夜の就寝準備まで済ませて実家を出ました。母は気管切開をしていましたが、現在では“スピーチカニューレ”という発話ができる装具があります。これは本当に素晴らしい器具で、音声で会話できるのでコミュニケーションが本当に取りやすい。とりとめもない話や4月に控えた息子の大学進学の話などをして、「じゃあまた来週ねー」と実家を出たのでした。

その翌日の土曜日の朝、実家の弟から電話があり「母がなくなった」といいます。特に思い当たることもなく、そうはいっても要介護度4でこれまでの経過を考えればありえなくもない。実家に駆けつけると、かかりつけの診療医の死亡診断もすでに済んでいました。

葬式の経験は初めてではありませんが、親族の意識というのは「故人の希望を汲みつつ最善を尽くして送り出そう」に尽きると思います。自分の喪失と向き合うのはどちらかというとその後。やることはたくさんあるのです。母に手を合わせた後で父と、弟に真っ先に聞いたのは、「お母さんを解剖してもらっていいですか?」でした。

最初がそれかよ、という感じですが何しろ時間がない。私は母と過ごした時間の中で、「私がこんな病気(MS)になったものも、『モルモットになって世の中の役にたちなさい』という神様の思し召しなのかもね。私が死んだら身体を調べ尽くしてね」という意味のことを何度も聞いた記憶が確かにあります。病院に頼んで解剖してもらうんだ、お母さんはそう希望していたんだから。私の頭の中にはまずそれがありました。

幸い、父も弟もまったく異存がなかったので家族の了承はすぐ得られたのですが、さて問題です。

どうすれば家族を解剖してもらえるのでしょう???

そもそも母は在宅療養中だったので、こうした状態でなくなった人は解剖してもらうことができるのでしょうか? さっぱりわからないまま、とにかく母を長年診ていただいた東京都立神経病院へ電話をかけました。「1月までお世話になっておりました**と申しますが、献体のお申込みというのはこちらでうかがっても良いでしょうか?」

今思うと無茶な電話だったと思いますが、さすが専門病院は慌てず動じず「『献体』とのお話ですが、故人の方が希望されていたのは『献体』でしょうか、それとも『病理解剖』でしょうか?」と確認をいただきました。懇切丁寧に教えていただき、ようやく献体と病理解剖の違いがわかったのです。

  • 献体:主に医学を学ぶ実習生の人向けに、遺体を提供する。解剖がすぐに行われるとは限らないため、故人の身体が家族のもとに戻るまでに1年以上を要することもある。
  • 病理解剖:故人の死因や病状、病態を調べるために解剖を受ける。解剖は亡くなって数日以内に行われ、即日で故人の身体は家族のもとに戻る。葬儀はその後で通常通り行うことができる。

この説明の通り、解剖担当医の先生のご都合がつき次第、解剖が行われるとのこと。土曜日の朝になくなった母は、翌々日の月曜日に病理解剖を受けることになりました。それまで母の身体を自宅で保存しておかなければなりません。といっても、これは葬儀まで日にちがかかる場合(昨今珍しくないんですよね)ととくに変わりません。これまでお願いしてた訪問看護ステーションの看護師さんに身体清拭をしていただき、月曜日を待つことになりました。

月曜日、私は母に付き添って神経病院へ向かいました。こういうときのために、専門の業者さんが車で母の身体を移送してくださいます。手配はすべて病院側におまかせできるので、私はただ説明をよく聞いてしっかり付き添いの仕事を果たすだけです。解剖には入院時に母の担当医だったH先生が参加してくださり、解剖の流れの説明や亡くなる前の様子の聞き取りなどをしていただきました。家族を代表して解剖の同意書に署名捺印する仕事もあります。解剖でわかったことは医学の世界で公表されるわけですから、情報提供に関する同意も含まれます。

病理解剖にかかる時間は、朝、家を出てから終わってまた母の身体と共に家に戻るまで、トータルで4~5時間くらい。解剖中は家族は病院の待機室兼霊安室で待つことになります。おおよその時間は教えてもらえるので、すぐに戻れる範囲で待機室を出ても大丈夫。私は神経病院と敷地を同じくする多摩総合医療センターまでお昼ごはんを買いにいったり、平日の昼間からTwitterのタイムラインを遡りまくったりして過ごしました。

解剖に抵抗を持つ家族の方もいるという話を聞いたことがあります。前後で表情など変わってしまうのでは、という心配もあるのだと思いますが、そういったことは特にありません。母の場合、脊髄の病気なのでどう考えても背中側から解剖することになります。前からはその痕跡は見えないのです。ただ、小脳のあたりまで解剖するはずなので、髪の毛はある程度は剃ったはずです。病院ではガーゼを使って綿帽子のように頭にかぶせてもらったので、頭の部分が目立つこともありませんでした。故人がウィッグを愛用している人であれば、お葬式のときにあってもよいかもしれません。

解剖が終わると、母の身体はいったん待機室に戻ってきます。母は退院してから2ヶ月ほどだったので、担当してくださった病棟の看護師さんたちが花を供えにきてくださって、H先生とともにお別れをしていただきました。退院後に亡くなった人と会うことは看護師さんにもなかなかないことだと思うので、その意味でもとてもよかった。

こうして無事に病理解剖が終わり、家に戻って母の葬儀をとどこおりなく済ませましたが、ここからが長い。当初、病理解剖の診断書が送られてくるまで3~4ヶ月、長くて半年程度と聞いていたのですが、実際は11ヶ月かかりました。それなりの時間はかかるだろうと思っていたのですが、「1年を超えるようなら病院に問い合わせてみようかなあ」と考えはじめたころ、H先生からご連絡をいただいたのです。

H先生からは、あらかじめお電話があり、病理解剖と臨床病理検討会(という会ががあるわけですね)の結果を文書で送付されるにあたり、簡単に内容を説明していただきました。さらに、素人には難し用語が多いであろう書類の内容を解説するお手紙も付けていただけたのです。

こうしてわかったことを総合すると、母の病気は生前の診断通り多発性硬化症でした。それ以外の全身の臓器の状態は年齢相応でほぼ良好な状態でした。心筋梗塞や癌はなく、肺、肝臓、腎臓にうっ血が見られたといいます。このことから、就寝中に心臓が停止し亡くなったとかんがえられるとのこと。解剖時の聞き取りでは、介護中に母に付き添って寝ていると、明け方ごろに呼吸がとても静かになって、息が止まっているのではないか?と確かめた経験をお話しました。こうした生前の様子とも一致し、つまり母は眠っている間に息が止まって亡くなったのだと考えてもよさそうです。自宅で亡くなった人の家族にとって、「介護になにか手落ちがあったのではないか」と考えてしまうことはとても苦しいことですから、これはとても大切な情報なのです。

40年以上母が戦ってきた多発性硬化症は、「大脳、脳幹、脊髄に散り散りに硬化性病変が見られ、顕微鏡で確認すると、脱髄の状態であり、多発性硬化症の古い病巣と合致しておりました。病変に炎症細胞はなく、亡くなる直前には炎症は起こっておらず、すべて古い病巣の痕が残っているだけでした」といいます。自力では立つことができなくなる程度の運動障害という重い障害は残ったものの、母は手をつくしてMSを治療し、20年近く再発のない寛解の状態で過ごしてきたことになります。H先生から「どちらかといえばMSは軽い方だった」という話を聞いて驚いたことも。病気は軽くても障害は重いとすればMSは本当に油断のならない病気です。とはいえ、適切に治療すればMSはコントロールできる病気だということにつながればいいなと思います。

そのほか、解剖の結果、軽度の嗜銀顆粒が見つかったのですが、“嗜銀顆粒性認知症”といえるような性格の変化(怒りっぽくなるなど)はなかったので発症はしていなかったと考えられるとか。

一周忌を前に、解剖の所見とH先生のお手紙を繰り返して読みながら、私にとってはこれが母を送る葬儀だったんだな、と思っています。簡易な式を希望し、直葬で送られた母ですが、読経の代わりにH先生のお手紙を読み上げたら喜んでくれるかもしれません。H先生からは、何度も「多発性硬化症という日本ではまれな病気で、貴重なご献体をいただき、医学の発展に役立てていただき」とお礼の言葉をいただきました。病理解剖でわかったたくさんのことが医学の知識体系のなかに加わって、次に病気で苦しむ人の役に立つならば、これは本当に嬉しいことです。