50年目のアポロ関連本特集[Science Vol.365書評から]

Science Vol.365 2019年7月19日号表紙は、1969年7月21日にニール・アームストロング宇宙飛行士が撮影した、自身の影が落ちた月面の写真。Credit: NASA

2019年7月20日20:17:39 GMT(日本時間21日午前5時17分39秒)は、アポロ11号の月着陸船(LM)着陸から50周年にあたります。Science誌の7月19日号はアポロ特集です。月の石の分析からわかった惑星の形成に関する学説や現在の民間、中国の月探査参加など50年目の月を幅広く知る特集となっています。

書評欄もアポロ計画に関する新著を2冊紹介。これまで数多く出版されてきたアポロ計画に関する書籍ですが、「宇宙飛行士中心史」「ケネディ、ジョンソン、ニクソン各政権の政治史」「プロジェクトマネージャやエンジニアに関するドキュメンタリー」に大別されるといいます。もちろん、宇宙飛行士を中心とした書籍が最も多く、エンジニア列伝は少数派ですが。

Shoot for the Moon: The Space Race and the Extraordinary Voyage of Apollo 11

ジャーナリストのジェームズ・ドノヴァン氏による『Shoot for the Moon 』は、マイケル・コリンズ宇宙飛行士に焦点をあてた本です。著者はアラモ砦の攻防に関する歴史ノンフィクションなどを書いた人物。ジェームズ・ドノヴァンというと、1960年のU-2撃墜事件でソ連側の捕虜となったフランシス・ゲーリー・パワーズ大尉の帰還交渉にあたった弁護士に同じ名前の方がいますが、同姓同名の別人です。

アポロ11号の月着陸船が無事に月面着陸を果たし、トラブルがあっても無事に帰還したことはすでに周知の事実ですが、本書では失敗したとすればどうなっていたか? を技術的な観点で多数の起きなかったシナリオとして描き出しているといいます。テーマとなったコリンズ宇宙飛行士自身が「広範に渡る調査と几帳面なまでの正確さによって技術的詳細をなぞり、計画を実現させた並外れた能力を持つ人たちの姿を描き出している」とコメント、称賛しているところからも期待できそうです。

ただ、地球帰還後の3人の宇宙飛行士の足跡がやや駆け足になっているところが本書の欠点とのこと。 印象的な結びの言葉として“By the time the crew returned home, they understood that their lives would never be the same.”という文が挙げられています。どう、以前のように暮らせなくなったのか知りたくもありますが、それは『ファースト・マン』といった先行する書籍でということなのかもしれません。

Eight Years to the Moon: The History of the Apollo Missions

ナンシー・アトキンソン氏の『Eight Years to the Moon』は、タイトル通りアポロ計画が成功するまでの開発期間を描いた書籍で、多数のエンジニアを始めとする関係者が登場します。たとえばヒューストンの有人宇宙船センター(後のジョンソン宇宙センター)に着任したばかりのケン・ヤング氏によると、「宇宙に関わる」という以外に自分の仕事が何をすべきなのか、当時まったくわかっていなかったとか。

現代のこうしたエンジニア列伝の中に、女性のパートが登場するのはもはや当たり前。当時の「男性主導、性差別的なエンジニアリング文化」の中で、女性のコンピューター職がいかに軽く見られていたか、アトキンソン氏は指摘しているといいます。

これは『ロケットガールの誕生』でも大きなテーマですが、女性コンピューター職が補助職とみなされていたため、エンジニアに相当する職務を果たしていても女性は「エンジニア」と名乗ることすらできず、自ら成果にふさわしい職位を勝ち取っていったという歴史がありました。アポロ計画に関わって活躍した女性エンジニアといえば、管制官のポピー・ノースカットさんやMITのドレイパー研究所でフライトコンピュータのソフトウェア開発にあたったマーガレット・ハミルトンさんらがいますね。Eight Years to the Moonの中では、アポロ計画に参加し、コンピューターからエンジニアになっていった女性としてドロシー(ドッティ)・リーさんが登場します。

NASAのコンピューターからエンジニアとなったドロシー・リーさん。

ドッティ・リーさんは映画『ドリーム』の舞台である旧NACAのラングレー研究センターからNASAの有人宇宙船センター/ジョンソン宇宙センターに勤務し、マーキュリー計画からアポロ計画まで、宇宙機の熱設計を専門とされていました。スペースシャトル計画ではシニアエンジニア、オービターのサブシステムマネージャの職位を得ています。アポロ計画のミッション中は帰還と着陸を見学したくとも、当時すでにスペースシャトルのSRBの設計に関わっていたのでオフィスを離れられず、ようやく最後のアポロ(17号)だけ見ることができた、というエピソードがNASAのインタビューの中にあります。

また、アトキンソン氏の著書では、知られざるアポロ11号着陸の危機について詳述されているといいます。アポロ11号のミッションタイムラインでは、アームストロング、オルドリン、コリンズ宇宙飛行士が搭乗した月司令船は7月24日16:50:35 GMT(日本時間7月25日午前1時50分35秒)に着水しています。その29分前に、月司令船と機械船(CMとSM)の分離が行われていますが、分離された機械船が着水を妨害する危険性があったとのこと。これは読みたい。この部分をまず読んでみたいものです。

アポロ11号から50年、多くのドキュメンタリー、映画、関連するフィクション作品が作られてきていますが、まだまだ埋もれているナラティブ、コンテンツがあるようです。これからも積極的に、日本へ紹介していきたいですね。

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「現像バット」は日本独自の言葉か

「現像バットに、粉砕バット」
「しつもーん。これはどーして『粉砕バット』というんですか?」
「粉砕するためのバットだからだ」
                       『究極超人あ~る コンペで勝負の巻』

光画部の備品としておなじみ「現像バット(写真現像用バット)」だが、実は粉砕バット(野球用バット)は異なる単語であって接頭語で区別する必要はない。しかもこの名称は日本独自のものであり、英語圏では使われていないことがわかってきた。調理器具としても普及している「バット」の独自性について、現在までわかってきたことを第1弾として記しておく。

写真現像用バットについて

印画紙に写真をプリントする際に使われる容器を、日本語で「写真現像用バット」と呼ぶ。長方形の浅型トレイ状の容器で、六切、大四切、キャビネといった印画紙サイズに合わせて複数のサイズがある。角に液体を流し出すための注ぎ口、底面にX字まはた平行の畝や溝がつけられていることも多い。畝は印画紙が底面に密着して取り出しにくくならないよう、少し浮かせるためのものだ。プリント工程だけでなく、シート状のフィルム現像に使用されることもある。暗室用品としては欠かせない器具だ。

この写真用品の現像用バット(以下、「現像バット」)の「バット」の綴りは「vat」である。「ヴァット」とカタカナ表記することもでき、野球用品の「バット(bat)」とは表記だけで区別が可能だ。

vatの辞書上の意味は、染色や製紙などに使う「桶」のこと。染料を満たして糸を浸す、溶かしたパルプを入れて製紙作業を行うための容器のことで「染色桶」「製紙桶」といった訳語がある。動詞のvat、vattingもあり、モルトウィスキーをブレンドする工程のこともヴァッティングという。vatで画像検索してみると、多いのが丸い桶の画像(※)。製紙用では四角い、上部が開いたバスタブ状の容器が使われることも多く、tub、tankと親しい単語であることがうかがえる。
※「VAT」(付加価値税)が圧倒的に検索上位

英語圏ではdeveloper tray

3-trays

一方で、英語圏で現像用の容器を意味する言葉は「photo developing tray」「developer tray」「darkroom tray」だ。それぞれ「写真現像トレー」「現像トレー」「暗室トレー」。1960年代に創業されたイギリスの暗室用品メーカー、パターソンのWebサイトでは「developing tray」の名称で販売されている。角の注ぎ口や底面の畝といった特徴も同じだ。

英語で現像バットは現在ほぼ上記のdeveloping trayまたはdarkroom trayと呼称されており、vatから名称が変化したといった根拠を見つけることはできなかった。2014年にフォトグラファーJohn Cyr氏による、20世紀の高名な写真家が愛用していた現像バットの写真集『DEVELOPER TRAYS』という作品がある。アンセル・アダムスやサリー・マンなど錚々たる写真家の愛用品が登場するが、現像バットから持ち主の作風を読み取るという、相当にエッジの効いた写真集だ。

過去には、20世紀前半に活躍した写真家ウィージー(Weegee、本名アシェル・フェリグ)に関する記述から、1909年にはニュース通信社の現場でdeveloping trayの名称が使われていた、というところまで遡ることができた。一方で、露出計の発明者として知られる写真家・アマチュア考古学者のアルフレッド・ワトキンス(※)は、1902年に写真現像の手法を体系化した『The Watkins Manual of (Photographic) Exposure and Development』という書籍を出版している。この本(参照したのは1919年の第8版)では「Tank Development」に対する用語として「Tray Development」という単語が出てくる。「vat」の語は出てこない。このことから、少なくとも1900年ごろの英語圏で現像に使用する浅型容器は「トレー」であり、「現像バット」ではないと推測できる。
※「レイライン」という概念の提唱者でもある。びっくり。

ちなみにフランス語、ドイツ語で辞書を確認してみたところ、developing trayと同様の意味の言葉であるようだ。現代の辞書を引いたのみで、過去にさかのぼって見たわけではないものの、「日本の『バット』はフランス語由来」と確認することもできない。

日本はいつから「現像バット」なのか

では、日本で「現像バット」の名称が現れたのはいつなのか。日本カメラ博物館の学芸員宮﨑真二氏の『寫眞雑誌(脱影夜話)』全3冊に関する検証と考察によれば、日本では明治時代に日本最古の写真雑誌「寫眞雑誌(脱影夜話)」の第2号「ホトグラヒー」(上記文献では明治10年/1877年11月の寫眞雑誌第1号発刊後に続刊)に器具として「銀液を満たす『バット』」の名称が現れたとの記述がある。ガラス板を使ったコロジオン湿板写真術の現像工程を説明する実用記事で、バットに注ぐ薬液の量など詳細な指定があるという。

これが今回、検索可能な文献でさかのぼることができた「(現像)バット」の用語の最も古いものだ。雑誌は、「1876年にイギリス・ロンドンで発行された『ウィルヤムヘーウェー氏の実用写影術手記』」という解説書を訳述したものといい、元の文献のどこかで「vat」ないしは「vatting」の用語が現れ、器具の名称としてそのままカナ表記して日本語に取り込んだのではないかと推察される。

その後はだいぶ時間が飛ぶが、ホーロー製品メーカーの野田琺瑯のwebサイトにホーロー製現像バットの生産について記述がある。「戦災により工場が全焼したが、1947年に再発足し、バット・タンク・バケツ等の生産を開始。」とあり、1960年代のカタログには「写真現像バット」の記載がある。昭和22年(1947年)には薬液に強いホーロー製品が現像バットとして使われていたことが伺える。

現在の現像バットは樹脂製、またはステンレス製が一般的だが、明治~昭和初期にはこうした材料がないことから、他の素材で作られていた。軽くて丈夫、薬液の腐食に強いホーローが現像バットの材料として採用された可能性がある。いつ頃かという点については遡れていないが、「日本では1866年に桑名の大鍋屋広瀬与左衛門が鋳鉄ほうろう鍋をつくったのが最初です。ついで1885年、大阪の小田新助によって鉄板ほうろう鍋が開発され、1890年には陸海軍の食器として使われるまでになりました。」(一般社団法人日本琺瑯工業会サイトより)との記述から写真技術の発展と足並みを揃えて取り入れられたのかもしれない。

ほかには19世紀末、または20世紀初頭に磁器のdeveloping trayがイギリスなどで製造されており、ヴィンテージ品として今でも残っている。Taylor Tunnicliff & Company(テイラー・アンド・タニクリフ商会?)というイギリスの貿易商はGranitineという暗室用品のシリーズを取り扱っている。他にも深型の現像タンクなどがある。

仮説の整理と「調理用バット」へのミッシングリンク

上記のような事実を踏まえ、下記の仮設を立てた。

  • 明治時代初頭、日本にイギリスの湿式写真技術を伝えた人物が、イギリスの書物を翻訳した『実用写影術手記』という文献を元に現像用の薬液を満たす浅型容器のことを「バット」と呼称した(vatの意)。vatは主として何らかの溶液を入れ、上部開口部から作業を行うための容器である。
  • 英語圏では同様の写真現像用の容器をdeveloping trayと呼称しており、少なくとも1900年以降はこの用語を採用している。
  • 日本の写真史の初期に「バット」の用語を用いて技法の普及があったため、暗室作業を行う写真技術者、関係者にこの名称が定着した。
  • 写真現像用バットは「印画紙に合わせた長方形」「薬剤に強いホーロー製」といった特徴を持つ容器として製造され、普及した。

まだわかっていない点といえば、「現像バット」と「調理用バット」のつながりがある。日本で「バット」といえば写真現像を行わない人にとっては調理用品のイメージが強い。Amazon.co.jpでも調理器具のカテゴリーに「バット(調理器具)」があるほどで、深型浅型といった形状の違いから、ステンレス、ホーロー、フッ素樹脂加工といった素材別、すのこ付き、ふた付き、取手付き、サイズ違い入れ子式のように多彩な種類がある。「角バット」とも呼ばれる。ステンレス製品は元のステンレス一枚板から何枚のバットが取れるかによって「枚取」というサイズがおおよそ規格化されているほどだ。

一方で、英語圏に「調理用バット」という器具の名称は見つからない。「cooking vat」で検索すると、電気ヒーターでオイルや製菓材料などを加熱する厨房または食品工場向けの調理器具が出てくる。ターキッシュ・ディライトという砂糖菓子を作るための専用「クッキングバット」製品がトルコの企業サイトで見つかった。日本式調理用バットは、Amazonやアリババで「日本式(Japanese)」「天ぷらバット(Tempura Vat)」として販売されていたりする。日本同様の浅型の調理用器具はもちろん海外にも存在するが、圧倒的に「steam pan(スチームパン)」「food container(フードコンテナ)」になる。フードコンテナの場合は蓋付きが多い。

電熱式でないcooking vatが日本の「調理用バット」になった可能性はあるか。先にも述べたが、vatは元々「桶」をさす言葉だ。一足飛びに染色桶から卓上サイズの長方形のトレー型容器になるだろうか? という疑問がある。※染色バットとの関係性は検討の必要がある。

今回は戦後の「バット」製品史を掘り起こしたわけではない(特にステンレス製品の登場)ため、どこで「バット」が「現像用」「調理用」両方の意味で使われるようになったのかは不明だ。現段階では、現像バットが戦後日本で調理用品としても使われるようになり、「バット」の名称が移行。さらに「バット」は元の「vat」を離れ、浅型で長方形の容器をさす言葉として定着した、との仮説を立てている。次のような経緯が考えられる。

  • 戦後、昭和25年(1950年)の朝鮮戦争によるステンレス鋼需要の高まりから、日本でステンレス容器、器具の製造が盛んになった。進駐軍によるステンレス製キッチン用品(カトラリー、容器など)の推進もこれを後押しした。
  • 昭和30(1955年)年前後または以降、普及期のステンレス製現像バットを、汎用容器として調理用品に転用、製造販売した人物または企業があった。
  • 使いやすく衛生的、温度管理しやすくサイズの自由が効くステンレス製バットは、元の写真現像用の枠を超え、調理用品として広く普及した。
  • 長方形の浅型容器を指す「バット」の名称が広く普及
  • 「cooking vat Japanese style」といった「日本式調理用バット」として、逆に輸出されるようになる。Amazon.com、アリババといった通販サイトで普及する。

今後は、「日本に写真用『バット』の語が入ってきた経緯」「「現像/調理バットの戦後史」を中心に調べていきたい。

2018年Nature’s 10 はやぶさ2吉川真ミッションマネージャ選出コメント[全文訳]

JAXA 小惑星探査機はやぶさ2チームの吉川真ミッションマネージャが、科学誌ネイチャー2018年の「科学の10人」に選出されました。称号は「Asteroid hunter(小惑星ハンター)」とのこと。吉川先生、選出おめでとうございます。発表記事の全文を翻訳してみました。2018年、はやぶさ2ミッションでの吉川先生画像とともにお届けします。

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2018年6月、天文学者・吉川真は宇宙の団子「リュウグウ」が刻々と変化していく様子をチームと共に見つめていた。3年以上の旅の後、慎重にエンジンを噴射して、小惑星探査機はやぶさ2は直径1キロメートルほどの小惑星と足並みをそろえて太陽を回るようになった。

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JAXA 宇宙科学研究所のはやぶさ2プロジェクト運用室にて。2018年6月23日。撮影:秋山文野

小惑星到着を成し遂げ、吉川とJAXAのチームは小惑星を探査するフェーズに入った。10月には、探査機は3機の小さなローバーをリュウグウに投下することに成功。初めて小惑星表面のクローズアップ画像を得た。

はやぶさ2は来年、リュウグウに着陸して表面サンプルを採取するというより大きな目標に挑む。誘導制御にわずかでも不備があれば、探査機は岩塊に激突してしまう。さらに、探査機は小惑星に弾丸を発射して巻き上げられた物質を集めるという大胆なミッションを実行する。そして太陽系初期の進化を解明する物質を携えて、2020年までに地球に帰還しなくてはならない。

吉川自身もこれまで試練をくぐり抜けてきた。JAXAの無人宇宙探査の歴史において、彼は天文学者として危機に瀕した探査機救う劇的な活動に2度、尽力している。

その最初のミッションは、2005年に初代はやぶさが小惑星イトカワに着陸し、小惑星のサンプルを採取したときのことだった。着陸から間もなく、探査機は管制室と通信できなくなってしまった。チームははやぶさとの通信復活に尽くし、メインエンジンの機能喪失を乗り越えて探査機を地球へと帰還させた。高速で飛行する探査機本体は大気圏再突入で燃え尽きながらも、小惑星サンプルの入った帰還カプセルは地球へと送り届けられた。

そして2010年、JAXAの金星探査機「あかつき」が減速して金星周回軌道に入ろうとしたとき、エンジンの不具合が起きた。あかつきは金星を離れて2015年まで太陽を周回し、チームはふたたび金星に接近する機会に軌道投入に全力を尽くしたのだ。

深宇宙探査の経験が多いとはいえない日本の宇宙機関にとって、避けられない事故もあると吉川は言う。「もっと経験を積まなくてはなりませんが、はやぶさ2はJAXAミッションでこれまでにあった不運に見舞われずに来ることができました」

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2018年6月27日、はやぶさ2が小惑星リュウグウに到着。宣言書を持つ吉川真先生とスポークスパーソンの久保田孝先生。撮影:秋山文野

ケルンのドイツ宇宙機関ではやぶさ2に搭載された着陸機MASCOTを開発した地球物理学者ステファン・ウラメクは、日本の宇宙機関は、リスクを取り失敗から学ぶ能力があったことで、慎重かつ予算に恵まれていた西側の他の宇宙機関とは違うものとなったと述べている。「NASAではやらないような、大胆なミッションに挑んでいます」という。

吉川は、いくつもの異なる研究機関同士が、それぞれの主張で衝突せずに協力関係を結ばせるという稀有な才能を持っている、フランス国立宇宙研究センター(CNES)でMASCOTランダーの共同プロジェクトマネージャを努めたオーレリー・ムーシは言う。「一緒に働いたことがあるサイエンティストの中で、彼ほど親切な人はいません」。

子供のころ、小さな小惑星に住み、地球を訪れた少年の物語「星の王子さま」を読んで以来、吉川はずっと小惑星への関心を持ち続けてきた。小惑星は常に追跡しなくてはならない潜在的な驚異であるが、太陽系の謎を解き明かす手がかりでもあり、将来の地球探査における資源ともなりうると吉川はいう。

「宇宙の中で小惑星はとても小さな天体ですが、人類の将来にとって大きく重要な存在なのです」。

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吉川先生を魅了し続けてきた小惑星。リュウグウの模型と共に。撮影:秋山文野

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ボイジャーの父とベピ・コロンボ(『ロケットガールの誕生』より)

2018年7月28日、JAXA宇宙科学研究所 特別公開時に展示されたベピコロンボ計画の日本探査機「MMO/みお」模型。

2018年10月18日、JAXA・ESA共同の国際水星探査計画「BepiColombo(ベピコロンボ)」がついに打ち上げられることになりました。日本からは水星磁気圏探査機「みお(MMO)」、欧州からは水星表面探査機(MPO)という2機の探査機を組み合わせ、水星の磁場や地球と異なる特異な磁気圏、希薄な大気や表面のようすを観測します。打ち上げから水星到着までおよそ7年(2025年12月到着予定)という長い探査の始まりです。

マリナー10号撮影の水星画像にベピコロンボ計画のマーキュリー・トランスファー・モジュールのイメージを重ねたもの。
spacecraft: ESA/ATG medialab; Mercury: NASA/JPL

これまでに水星を探査した宇宙探査機は、フライバイ探査を行った1973年の「マリナー10号」と、周回探査を行った2004年の「メッセンジャー」(共にアメリカ)という2機の探査機だけでした。

「ベピコロンボ計画」という名称には、上記のうちマリナー10号と関わりがあります。イタリアの天体力学者ジュゼッペ(ベピ)・コロンボ博士はマリナー10号が水星を探査する軌道を提案した人物です。そのときのことは、『ロケットガールの誕生』にこう書かれています。

一九七〇年にJPLで開催されたマリナー10号に関する会議の席で、コロンボは、水星に二回接近できる方法を提案したのだ。

『ロケットガールの誕生』第10章 最後の宇宙女王 より

このときのエピソードは、NASA ジェット推進研究所(JPL)でマリナー計画に深く関わり、1976年から1982年までJPL所長を務められたブルース・マレー博士の著書『Journey Into Space : The First Thirty Years of Space Exploration』に詳しく著されています。後にJPL所長として火星探査機バイキング、そしてボイジャー探査機の打ち上げを率いたマレー博士とベピ・コロンボ博士との出会い、そしてマリナー10号の実現までをご紹介します。

■水星の公転と昼夜の謎

JPL/カリフォルニア工科大学(カルテク)で水星探査の検討を行っていたのは1960年代の後半でした。19世紀までは、「水星の公転と自転周期は一致しており(地球の88日)、水星は太陽に常に同じ面を向けていて昼の側は非常に高温かつ夜の側は太陽系で最も冷たい場所」と考えられていました。1961年、欧州の学術機関は水星の公転周期を1万分の1の精度で求めることに成功。同じ年にミシガン州の電波天文学者が水星からの電波の放射を捉えることに成功しましたた。驚いたことに、水星の夜の側から発された電波からすると、夜側は従来考えられていたほど冷たくないことがわかりました。

昼の側から夜の側へ熱を運んでいるものは何でしょうか? 大気だとすると、水星に反射した太陽光のスペクトルを分析しても二酸化炭素のように熱を運ぶことができるガスは見つかりませんでした。大気があったとしても、主成分は当時は不活性なアルゴンガスだと考えられていました。

1965年にはプエルトリコのアレシボ天文台が水星を観測し、自転周期は88日ではなく59日であることがわかりました。ではなぜ従来は88日と考えられたのか? これを解決したのがイタリアのパドヴァ大学の天体力学者、ジュゼッペ(ベピ)・コロンボです。コロンボは水星の公転周期と自転周期が3:2の共鳴関係にあることを論文で発表し、理論はすぐにレーダー観測によって確認されました。水星は昼夜にぱっきり分かれているわけではなかったのです。

■水星への一度きりのチャンス

次第に謎が解明されてきた水星ですが、そこへ探査機を送る方法を考案しなくてはなりません。この答えを出したのが英国惑星間協会。金星の重力を使って探査機の速度を変える方法を考案しました。マレー博士が「スイングバイ」方式を知ったのはこのときが初めてだったといいます。ボイジャーを始め多くの探査機が利用してきたスイングバイ方式ですが、実際に採用されたのはこれが最初で、マレー博士も「ペテンのような」方法だと感じたといいます。

1962年にはマイケル・ミノービッチ博士が1970年と1973年に金星をスイングバイして水星に到達できるスイングバイ軌道を発見しました。マリナー級の探査機であれば、アトラス/セントールロケットで金星を経由して水星に到達できます。ただし、チャンスは1回です。

NASAは1967年、水星・金星探査計画を1973年に行うと決定しました。仮名称はマリナー/ビーナス/マーキュリーの頭文字から“MVM”と命名されました。これが後のマリナー10号です。探査機は基本的にマリナー6号、7号と同じ。ただし、NASAの太陽系探査予算は縮小されつつあり、予算規模は9800万ドルとされました。1968年にアメリカの科学アカデミーはそれまでの2機同時開発をやめ、「打ち上げを1回きりとすべき」との見解を発表しています。「惑星探査はもはや原始的でリスクの大きい試みではない」というのがその理由ですが、つまり「失敗は許さん」ということです。

一度きりのフライバイ探査で、水星の昼の側を撮影し、夜の側で磁場を観測するにはどうすればよいのか。カメラでの撮像も、磁場の観測も外せません。マリナー計画では金星と火星の磁場を観測していますが、ちらにも地球のような磁場は見つかっていませんでした。水星は火星より大きな鉄のコアを持っていますが、長い年月で惑星の内部はかなり冷えていて、磁場を生み出す活動は起きているだろうかという疑問があります。金星ほどではないにしても自転は遅く、それぞれ条件の違う惑星をなんとしてでも比較したいものです。

計画は、水星の「午後」の側から超望遠カメラで撮影し、夜の側に入って磁場の観測をするということになりました。マリナー6・7号とカメラ構成を改良して水星探査に特化した観測機器に変え、当時としては非常に高性能の4秒角という解像度を実現するカメラシステムが完成しました。これは、新聞の三行広告を約400メートル離れたところから解読できる性能だといいます。

■ベピ・コロンボとの出会い

MVMことマリナー10号の計画スタートを控えた1970年2月、カルテクにてMVMの科学会議が開催されました。マレー博士がベピ・コロンボ博士と実際に対面したのはこのときが初めてで、本にはこう書かれています。

そのとき、私はこの小柄ではげかかった、世界で最も魅力的な笑顔を持つ人物をかろうじて知っているという程度だったが、コロンボは近づいてきて私に話しかけた。
「マレー博士、マレー博士。イタリアに戻る前に、どうしてもあなたにお聞きしたいことがあります。探査機が水星に接近した後、太陽を周回する期間のことです。探査機を戻ってこさせますか?」
「戻って、来るですって?」
「そうです。探査機は水星に戻ってこられますよ」
「本当ですか?」
「確かめてごらんになったら?」

『Journey Into Space』5. One Chance for Mercury より

コロンボ博士の言葉は正しく、MVMは水星の公転期間88日のちょうど2倍である176日かけて太陽の周りを回って戻ってくることができました。少しの軌道修正で水星の2年ごとに同じ面を観測できます。打ち上げのチャンスは1度きりですが、ミッション期間を伸ばすことで更に多くの観測データを得ることができるのです。

これが、ベピ・コロンボ博士が「マリナー10号の水星遭遇軌道を提案した」というエピソードの詳細です。惑星探査の予算が縮小され、余裕を持った計画が難しくなる中で、軌道計画によってエクストラの観測機会を実現したのがコロンボ博士の提案だったというわけですね。

その後、マレー博士はマリナー10号の通信システムを改良し、データ処理のボトルネックとなっていたテープレコーダー式の一時記憶装置を廃して、さらに地上側のDSN(ディープ・スペース・ネットワーク:NASAの大アンテナ網)のエンジニアを説得し、117,600bpsという当時としては画期的な転送レートで水星の観測画像を送信する計画を立てます。

さて、実際のマリナー10号のミッションはどうなったのでしょうか。また次回ご紹介したいと思います。

ガーターベルトからの「解放」(『ロケットガールの誕生』より)

ナタリア・ホルト著『ロケットガールの誕生:コンピューターになった女性たち』には、NASA ジェット推進研究所と宇宙探査の歴史だけでなく、20世紀半ばのアメリカ文化の変化を実際にそこに生きていた女性の目を通してつづられています。

本書に登場する“ロケットガール”の女性たちは、後にコンピューター室長になったヘレン・リンさん、バーバラ・ポールソンさん、スー・フィンレイさんたち最初の世代の多くが1930前後の生まれです。アメリカ初の人工衛星が打ち上げられ、NASAが誕生した1950年代後半にプロフェッショナル職を持つ20代として過ごしているのです。

今でこそTシャツデニムの聖地のような米西海岸ですが、この時代は服装はまだ保守的でした。JPLで最初の女性コンピューター、バービー・キャンライトさんに関する部分では、飛行場でロケットプレーンの実験に参加する際にも、きちんとドレスを着てストッキング、パンプスを履くシーンがあります。

女性解放を象徴する服装というと書物に登場するのはなんといってもミニスカート、というイメージがあります。ただ、ミニスカートの流行は1960年以降でマリー・クワントらデザイナーやファッションブランドの功績によるものだと思います。

ロケットガールズ第1世代が20代だった1950年代後半、ある新しいファッションが生まれ、ひとつの女性解放を果たしたことが本書にあります。それが、パンティホース(パンティストッキング)でした。

パンティストッキングが登場したのは、一九五〇年代にエセル・ブーン・ガントという女性がいたおかげだ。

『ロケットガールの誕生』第9章「惑星の引力」より

本書の引用元でもあるSmithsonianの記事『50 Years of Pantyhose』から、パンティストッキング誕生の歴史をたどってみましょう。

(パンティストッキング)発明者の息子アレン・ガント・ジュニアによると、ガント・シニアは妻のエセル・ブーン・ガントと共にニューヨーク市でメイシーズ・サンクスギビング・デイ・パレードを見物し、ノース・カロライナの自宅に帰ろうと夜行列車に乗った。そのとき妊娠中だったエセルは、夫に対して「少なくとも子供が生まれるまでは、もう一緒に旅行はできない」と告げた。夫婦のどちらかに問題があるというわけではなく、とにもかくにも快適さの問題だ。お腹が大きくなりつつあるため、ストッキングをガーターベルトで留めておくことがいよいよ難しくなってきている。かといって、公共の場所に出るのにちゃんとした女性が靴下を履かないというわけにはいかない。

これは1953年のことだそう。今ではファッションアイテムの一つであるガーターストッキングですが、この時代では
・女性が素足を見せて人前に出ることなんてできない
・長時間身に着けているとガーターベルトがきつくて苦しい
という二つの理由から女性を縛る存在だったのですね。

アレン・ガント・シニアは、妻の訴えに発明の才を持って応えます。彼は「パンティとストッキングを組み合わせてみたらどうだろう」と提案し、エセルが実際にストッキングを縫い合わせて試作品を作ってみました。繊維工場のオーナーであった彼は、自分の会社にこれを持ちこんで商品化。1959年に「パンティレッグス」の名前で百貨店で販売されるようになりました。

30年後にエセルは取材に対して「とても素敵でした。私と同世代の女性はみな発売当初から最高だと思っていて、手に入れるのが待ちきれませんでした」とコメントしています。

その後、ミニスカートが登場するとパンティストッキングは別の意味で流行に貢献します。ストッキングをガーターベルトで留めると、ストッキングの縁と留め金部分がスカートのすそから見えてしまいます。ニーハイソックスのように最初から縁を見せるつもりならともかく、意図しないのに見えてしまうのは女性にとって嬉しくもなんともないですが、パンティストッキングなら大丈夫というわけです。

日本でこのパンティストッキングが普及したのはもう少し後だったようで、1945年生まれの私の母は60年代半ばに働いていたころ、まだガーターベルトでストッキングで留めるしかなかったという話を聞いたことがあります。70年代、80年代には日本でもすっかり普及していますね。パンティストッキングはそれはそれで、少々暑いとかサイズの制約が厳しいといった問題もなくはないですが、全面的にガーターベルトへ後戻りするということはもうなさそうです。

さて、足元の女性解放を果たして生活必需品から引退したガーターベルトですが、今でもTwitterのタイムラインで時々話題になるのが「ガーターベルトは、ショーツの上に着けるべきか、それとも下か」という問題です。ガーター部分が外側に見えているとレースなどの装飾がきれいですが、トイレにいくたびに外さないといけないので不便です。実際のところ、どちらが正しいのでしょうか?

というわけで、「正解はない」のが正解。引用したイギリスのストッキング専門店によると「デザイナーはガーターベルトを上にして着けると美しく見えるようにデザインしている。とはいえ、お手洗い事情がそれを許さないこともあるため、ショーツを上にしている人は多い」だそうです。

1950年代、ガント夫妻のおかげでガーターベルトは女性を縛る存在から、好みに応じて身に着けるファッションアイテムに変りました。その歴史を尊重すれば、ガーターはつけたいようにつける、が良いと思うのです。

『ロケットガールの誕生 コンピューターになった女性たち』アメリカ初の人工衛星からボイジャー、バイキング探査機まで

『ロケットガールの誕生 コンピューターになった女性たち』(地人書館)表紙。帯あり

2018年7月、地人書館よりNASA ジェット推進研究所(JPL)の女性コンピューターの歴史を描いたノンフィクション『ロケットガールの誕生 コンピューターになった女性たち』が出版されました。初めて1冊翻訳を担当した書籍となります。

ロケットガールの誕生 コンピューターになった女性たち

2016年4月、ふと目にしたロサンゼルス タイムズの書評が本書の原作との出会いでした。「コンピューター」という言葉が電子計算機の前に人間を指す、ということは知識としては知っていましたが、実際にその職業についていた方々の記録となれば特別な興味がわきます。しかも女性で、アメリカの宇宙探査機の歴史を作ったJPLを支えたというのです。

これは読んでみるしかない! すぐにでも欲しかったのですが、当時AmazonではAudible版しかなく文字のKindleで入手できませんでした。読みたくてもんどり打っている間に、頼もしいフォロワーさんがiBooksの存在を教えてくださいました。おかげで「読みたい!」という気持ちが新鮮な間に広げることができたのです。以来、読みたい本があったときにはタイトルで検索して、入手ルートが複数あるのか、価格に違いがあるのかなど確かめるようにしています。

そして読み始めてから1ヶ月ちょっとのツイート。

このときはまだ、一読者として好きな本の存在を語りたくてツイートしていただけでしたが、しばらくして、なんと地人書館の編集者にして、あるときは“GoogleSatTrack”や小惑星探査機はやぶさ2の現在位置を表示するWebサービス“H2Track”の作者、またあるときはJAXA 宇宙科学研究所に出没するボサ博士こと柏井勇魚さんから「翻訳をしませんか」とのお声がかかりました。

20年以上編集/ライター業をしていますが、数年に1回くらいこんなふうに、ボールを受け取るやいなや全力で走り出すような仕事が訪れます。この前は、「そんなに宇宙が好きなら、『はやぶさ』の企画やろうよ」とお声がかかってひと夏走り通した小惑星探査機「はやぶさ」13人のプロジェクトメンバーへの大インタビューでしょうか。

初めての書籍翻訳、それも9万語を越えるノンフィクションとなると、走るといってもかなりの長距離走になります。当時、フリーライターを少し休んで会社づとめをしていたこともあって、作業期間の見積もりが甘く、当初予想を大幅に超えて8ヶ月以上の時間がかかってしまいました。日本語でこの魅力的な本をご紹介するのが遅くなってしまったことは、大変申し訳なく思います。

それでも、これまでライターとして宇宙探査の記事を書き続けてきた経験を本書の翻訳に十二分に活かすことができました。小さい頃からカール・セーガンの『COSMOS』で親しんだ「ボイジャー1号」「ボイジャー2号」という大スターだけでなく、「アメリカ初の人工衛星「エクスプローラー1号」打ち上げのエピソードは、ISAS 宇宙科学研究所の的川泰宣名誉教授の著書『月をめざした二人の科学者』(中公新書)を読んだ上ですと、同じ歴史の違う側面をたどっている喜びがあります。

米ソ宇宙競争の中で「マリナー2号」が金星探査を成功させた意義がどれほど大きかったか再確認することにもなりました。地球観測衛星「シーサット」が人工衛星で初めてLバンド合成開口レーダーの技術があったからこそ、毛利衛さんがスペースシャトル・エンデバー号搭載のレーダーによる立体地図作製のデータ取得ミッションもあったのだし、JAXAの地球観測衛星「だいち」「だいち2号」もPALSARで宇宙から地球を見てくれるのだと思うと、いっそう親しみがわきます。

そして、こうした宇宙の歴史を作ってきた人々が、これまで表に出てこなかった、高度な技術を持ったプロフェッショナルの女性であるという驚き! ネタバレになってしまいますので個々のエピソード紹介は控えますが、私はヘレン・リンさんが計算競争でやすやすとトップを走っていくシーンが大好きです。

2年かかってついに『RISE OF THE ROCKET GIRLS』を日本語でご紹介することができることになりました。原作と同じく日本語版の表紙にはJPLロケットガールズのみなさんが登場します。鮮やかな黄色を背景に「ヒューマンコンピューター」の女性が並ぶ(カバー裏まで続いています)最高のデザインは、江川英明さん(モジャ博士)が担当してくださいました。

カバー全体

『RISE OF THE ROCKET GIRLS』原作表紙

それでは、本書『ロケットガールの誕生 コンピューターになった女性たち』を多くの方々に楽しんでいただけますように。

SpaceXの前に消えていったニュー・スペース企業たち

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この3月、宇宙ビジネスを題材にした良書が2冊立て続けに発売された。1冊は「アトランティック」関連WebメディアQuartzのティム・ファーンフォルツ記者による『Rocket Billionaires: Elon Musk, Jeff Bezos, and the New Space Race』。もう1冊はワシントン・ポスト紙のクリスチャン・ダベンポート記者による『The Space Barons: Elon Musk, Jeff Bezos, and the Quest to Colonize the Cosmos 』だ。どちらも現在の宇宙ビジネスを牽引するイーロン・マスク、ジェフ・ベゾス、リチャード・ブランソン、グレッグ・ワイラーといった大富豪を取り上げている。多角的にニュースペースの人物像を知ることができるいい機会なので、読まずに宇宙ビジネスを語ってはいけないと思う。

せっかくなので、ネタバレになりすぎない程度に中身を紹介したい。先に読んだThe Space Barons(宇宙業界の豪商列伝という感じ)から、SpaceXやBlue Originとも関連の深い「その他の」企業の話だ。

まずは、イーロン・マスクの精神的先輩ともいえる民間ロケット企業ビール・エアロスペースについて。この会社は、20世紀末にペイロード20トンのヘビーリフター「BA-2」開発構想を掲げ、第2段エンジン開発に成功するも創業4年で消えていった。

創業者で数学の天才アンドリュー・ビールはテキサスで不動産売買によって財産を築き、民間宇宙産業を勃興しようと1997年にビール・エアロスペースを設立。テキサスのミサイル実験場だった場所をリースして開発を始めた。

これだけ聞くとクレバーな人のようだけれど、性格は根っからギャンブル好きで、ラスベガスに来てはめちゃくちゃな高レートのポーカー勝負を始め、現地でも超一流のプロのポーカー師2人がかりで丁重におもてなしされた上に勝ったり(その後はラスベガスに通いつめて億単位で勝ったり負けたりしている)、「人類は小惑星衝突で滅びるかもしれない、宇宙移民を急がなくては」と本気で心配したりしている。天体衝突には科学的根拠もあるが、『ディープ・インパクト』『アルマゲドン』公開が1998年であることを考えると、何に影響されたのかうかがえる気がする。ビジネスを覚えたのも、11歳のときに、軍の払い下げTVを1ドルで買い取って修理して40ドルで売り抜ける手法を実践してから、と控えめにいってもキチガイエピソードが満載の人だ。

ロケット構想は非常に大掛かりで、BA-2ロはサターンVのF-1エンジンを超える巨大エンジンを搭載し、3段式で高さ72メートルの巨大ロケットになる構想だった。すべて自己資金で第2段搭載用のケロシン/過酸化水素エンジンを開発するまでにいたった。

ただ、「宇宙産業が政府によって囲い込まれているのは不当だ」という強い信念を持ち、ロッキード・マーチンやボーイングといった企業と軍やNASAの関係が閉鎖的で、同時に最大のビジネスリスクだと常に主張していた。当時はまだNASAによるCOTSのようなプログラムはなく、2000年にNASAと国防総省合同の次世代宇宙機構想Space Launch Initiativeが発表されると、民間に勝ち目はないと絶望してビール・エアロスペースを廃業する。

それから数年。空っぽになった開発拠点のテキサスのマグレガー・ファシリティでエンジン燃焼設備がすっかり錆びついたころ、ジム・カントレルという1人の男性が施設を訪れる。知っている人は知っていると思うが、カントレル氏は初期のSpaceXで働いていた人物だ(現在はVector Space Systemsを設立して小型衛星打ち上げビジネスに参入)。ビール・エアロスペースの志も試験施設も今やイーロン・マスクが引き継いでいるというわけだ。

***

次にキスラー・エアロスペースについて。大事なのは、これがCOTS契約を得てSpaceXらと競争するも資金難で消えていったロケットプレーン・キスラーの前身となる企業で、2005年までの話だということだ。しかも、カウンターパートはやはりSpaceX(というかイーロン・マスク)だ。実はCOTS以前にもSpaceXとキスラー・エアロスペースの間で競争があり、結果キスラーが負けている。

2004年当時、SpaceX(まだFalcon 1が飛ぶ前)がNASAを顧客にしようと奮闘していたころ、NASAはビール・エアロスペースを苦しめたSpace Launch Initiative計画のもとで、キスラーから再使用ロケット「K-1」の飛行データを2億2700万ドルで購入する契約を結んだ。

これに異を唱えたのがSpaceXだった。「NASAが同様の契約の機会をキスラー以外の企業に与えないのは不公正だ」と議会に訴えた。SpaceX内部では顧客にしようとしているNASAを敵に回すようなことをしてよいのか、と懸念の声が上がったというが、イーロン・マスクは主張を取り下げなかった。

Space Baronsの記述では、その背景にキスラーの開発責任者ジョージ・ミュラーの存在を見ている。ミュラーはサターンV、スカイラブ、スペースシャトル開発を手がけた伝説的エンジニアだ。キスラーは2003年にK-1開発費用が膨らみすぎて破産しており、契約は実質、NASAが大先輩である人物の関わる企業に対して救済措置として行われたというわけだ。2005年のSpacenews.comの記事もこれに似た論調で「ビジネスプランに問題のある企業を救済するのはNASAの仕事ではない」と結論づけている。
そして、SpaceX社内外の懸念もあった中で、GAOはイーロン・マスクの主張を認めた。これでキスラーは窮地に陥る(そもそも破産しているが)。K-1の開発は当初の2億5000万ドル予定から倍の5億ドルに膨らんみ、かつまだめどが立っていない。Spacenewsの記事によると、企業救済の専門家ダグラス・タイテルバウムが投資を試みたものの、出口戦略を見つけられずに撤退してしまい、キスラー・エアロスペースは完全に終わってしまった。翌2006年にロケットプレーン社に買収されてロケットプレーン・キスラーが誕生するが、NASAの民間宇宙輸送計画COTSに参入するも資金問題は解決できずに撤退。もう「キスラー」の名の元に宇宙ビジネスへ参入するのは無理ではないかと思う。

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K-1 Vehicle Separation. Image Credit: RpK

NASAの救済の元に延命しようとしたキスラー・エアロスペースだが、実は1993年に設立されたころ、NASAは同社の顧客として重視されていなかったのだという。キスラーによる商業宇宙活動は、通信業界向けの低軌道衛星コンステレーションビジネスを目指していた。ドットコム・バブルが弾け、衛星事業者の撤退に伴ってK-1の開発は頓挫したということなのだが、もしかしてそれは「テレデシックとキスラーが共倒れ」ということなのでは…? と思ってしまう。また、2000年代に入って、ローコスト打ち上げ手段への関心を増大させていた、国防総省界隈(ULA設立のときにも出てきた話だ)へK-1を売り込みに行かなかったのもまずかったのでは? とSpacenewsは述べている。

***

ここまでは消えていったライバルの話だが、ここからは現在進行系でライバルであるULA設立の経緯をおさらいする。

もともと安全保障分野の政府コントラクターとして寡占的な地位を占めつつ競争を繰り広げていたボーイングとロッキード・マーチンだけれども、1998年に打ち上げ契約数で19:9とボーイング圧勝となったことがあった。その後、実はボーイングがロッキード・マーチンの内部情報を不正に入手していたことが判明。ペンタゴン周辺の大スキャンダルとなり、ボーイングは契約を制限される制裁をくらった。

2001年に9/11が発生して以来、GPSや軍事通信衛星はますます重要視されるようになっていった。NASAは技術開発の中核として存在感が増し、政府系の打ち上げ市場は巨大ビジネスとなった。

ペンタゴン界隈としては、衛星打ち上げロケットのロバスト性(片方に失敗があってももう片方が代わりを担える)意味でも、技術を常に発展させコストを下げる意味でも、2社以上に競争を続けてほしい。かといって、競争が行き過ぎてスキャンダルのようなことがまたあっては困る。そこで、企業は分けたままビジネスだけを統合させようと、ULAを設立させたという小史が語られている。巨大企業の誕生に政府系打ち上げのボーイング、ロッキード・マーチン依存度はますます増した。これにずーっとケンカを売り続けているのがSpaceXという次第だ。

このようにThe Space Baronsにはこの20年ほどのニュー・スペース界隈の浮き沈み事例がいくつも取り上げられている。これがあって今のSpaceXやBlue Originもある。